おの先生ってどんな人?


伊丹 おの小児科,おの先生  
名前 誕生日 星座 好きなもの
小野 英一 1月11日 やぎ座 万年筆、クラシックカー
住所 好きな国 血液型 好きなこと
西宮市 タイ O型 マリンスポーツ、バンコク旅行


           

◆開業までの道のりを開業奮闘記で紹介しています。
伊丹 おの小児科 ブログ◆毎日のあれこれを綴っているブログもぜひご覧ください。

   
 

幼少期 (幼稚園〜小学低学年)

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父親の仕事の関係でスイス、チューリヒで過ごす。 現地の学校と日本人学校の両方に通う。 親友はイタリア人のダビデ君。 スイスドイツ語を流ちょうに話していたらしい。LEGOブロックの鉄道模型を買ってもらった。今でも持っている。ハムスターを街角のペットショップ屋で買ってもらい、 近くの駄菓子屋でグミキャンディを買うのが楽しみだった。 路面電車(白と青のツートンカラー)の記憶が強い。イタリア、フランス、イギリス、オーストリア、デンマークなどに旅行にいった。 父親は製薬会社の抗生剤開発、家族で出かけては土壌採取をした。

幼少期の思い出は、内覧会チラシの裏面でもご紹介しています。
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小学校時代

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小学3年生の時の担任の先生の西明石の別荘によく行った。夏は先生に連れられて西明石、藤江海岸、遠くは日本海の竹野浜に遊びに行った。 アクアスクーターという水面を走る乗り物を持っていてよく乗せてもらった。今では自分でもアクアスクーターを持っている。一番足が速かった。 進学塾に通っていたが、正直、まともに勉強はしなかった。ファミコンが好きで、多くのカセットを買ってもらいよく遊んだ。 ホーネットというラジコン、三輪バギー、飛行機などのラジコンで父とよく遊んだ。よく釣りに出かけた。川釣りが多かった。 小学6年の女性の担任と折が合わず、卒業式の練習はすべて欠席した。関西学院、岡山白陵、岡山中学など全ての受験に失敗。

小学校時代の思い出は、内覧会チラシの裏面でもご紹介しています。
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中学校時代

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3年間、帰宅部だった。その当時全国的に有名だった進学塾「森田塾」に通っていた。かなりのスパルタで体罰は当たり前、今では考えられない程の過酷な塾だった。 あまり学校にも行かず、塾に行くか、母親の勤めていた調剤薬局の控室で中華丼を食べて過ごすか、そんな日々だった。
合唱部に好きな子がいたが、何も言えず横目で見るだけの根暗な感じの中学生だった。きっと同級生も私のことを覚えてる人は少ないかな…。
効率の悪い塾での勉強、自分の怠けのため、漠然とあこがれていた慶応ボーイ、早稲田ボーイにはなれなかった。関西学院、駿台甲府高校にかろうじて合格。
親元から離れたい、あまり知られていない高校にと考え駿台甲府へ。今思えば、もっと色々と楽しめばよかったと後悔している。


 

高校時代

慶応ボーイの夢が破れた僕は新神戸駅から新幹線に乗り東京へ、そして山手線で新宿へ向かいました。新宿から特急あずさに乗り込み、山梨県甲府市を目指します。 慶応や早稲田と言った東京での生活を当時夢見ていた僕にとって、新宿からどんどん離れていく列車の中での気持ちは何ともいえない複雑な物がありましたね。 これも自分自身が中学時代にまともに勉強せずに逃げ道ばかりを探したり、悪い事ばかりをしていた結果、そう反省しながらも新宿から離れていく際はいつも複雑な気持ちでいっぱいでした。 山梨県甲府市までは1時間30分くらいでしょうか?あずさを降り、駅の改札を出るとそこには「エクラン」という駅ビルが併設されています。 当時、この駅ビルの何階かにあったCD屋さんでCDを買ったものです。1階にはカウンターしかないカレー屋さんなんかがあったなあと漠然に思い出します。 今はもうだいぶ変わったんだろうな〜なかなか行く機会がないけれど、いつか甲府の地を踏みたいなと思っています。甲府駅の北側から出て、すぐ線路沿いを西へ向かいます。 しばらく歩くともう今はない旭日寮という学生寮が右手に見えてきます。そこを通り過ぎると右手に甲府工業の大きなグランドを眺めながら、左にはこれまた今はないであろう有名な駄菓子屋さん(高橋商店だったかな)がありました。 よく中休みに買い食いをした記憶があります。とても良いお店でご夫婦も学生にとても優しかったです。このお店を通り過ぎると小さな川を渡り、工業高校に押されるような感じで正門があります、そこが僕の母校、駿台甲府高等学校です。 今はネットで見る限り、正門の場所や中の構造も変わっているみたいで、当時のオラオラ系の体育教師がな、なんと校長先生になっているなどといった驚きもあり、これまたいつかは校内に立ち寄りたいなと思う動機の一つですね。 この駿台甲府高等学校という学校は駿台と名が付くためお分かりだと思いますが、大手予備校の駿台予備校が経営母体となっています。 ですので、学校の先生の一部は予備校の講師も兼任されており、八王子校などで講師をされていたりします。また学校の教科書も予備校の教科書と同じ、教科書というよりは本当に予備校のトレーニング本みたいな感じでした。 僕が通っていた当時は山梨県ではナンバー1の進学校だったと記憶していて、それなりに東京大学、京都大学、大阪大学や各大学の医学部、慶応、早稲田と現役合格を出していたと思います。 今は風の噂ですが、公立高校になかなか出来る高校があるらしく、県内ナンバー1ではないらしいですが、是非とも進学率ナンバー1を奪還してほしいなと応援しています。 まあ、浪人した僕が言うのも変ですけどね。

1年生は曙寮という学校からえげつなく遠い場所に寮での4人部屋、2、3年生は先ほど触れました旭日寮での1人部屋生活でした。 3年間、ラグビーに打ち込んだが、大して強くなかった。関東出身の寮生から何故か目をつけられ、陰湿ないじめ(?)にあった。友人は2〜3人程度。集団行動が苦手だった。 学園祭にもあまり参加せず、寮の部屋で一人過ごしていた。友人と大喧嘩し、数週間の停学を経験した。卒業式は欠席した。 パイロットを目指したが、色弱のため願書すら受け付けてもらえず断念。親からは外交官を勧められたが、反発心からか志望しなかった。少し後悔。
漠然と医学部を目指すことに…当時は「医学部」という響き、社会的地位、経済力にあこがれただけだったのかも?また、救急で働くドクターを題材にしたドラマをかっこいいなと観ていたからなのか? しかし、島根医大、和歌山県立医大、私立数校、全てに不合格。 駿台予備校大阪校で浪人生活を送ることになる。


 

予備校時代

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駿台甲府高等学校を卒業した関係で、優先的に駿台予備校に入学出来るという、これまた駿台グループならではの謎なシステムに乗せられ、僕は服部緑地の近くにある駿台予備校大阪校で浪人生活を送ることになりました。
JRで大阪で行き、そこから地下鉄で北上し大阪校へ向かいます。が、時に梅田という誘惑があり、地下鉄に乗らず梅田をブラブラ、喫茶店で少し勉強し夕方前に帰宅するという相変わらずな日々もありました。 現役の時に医学部に行こうと決めていたので、志望学部を変える気は全くなく、医学部進学コースで授業を受けていました。その部屋はとても広く、3列になっています。 その部屋を入って奥の前から成績優秀順に座席が決まっています。僕は定期テストなど色々なテストも受けない事が多かったせいもあり(単なる言い訳・・)、一番手前の三列目の後ろの方の座席、つまりは医学部進学コースの中で最下位に近い人たちが集まる場所に座っていました。 自分の対角線上には医学部合格が約束されたような秀才が居て、授業中、たまに「良いな〜凄いな〜」なんて眺めていたものです。本当に医学部に行く気があったんかいなと今思えば笑ってしまいます。

駿台予備校はご存知の通り、全国展開する有名な予備校で関西にも何か所かあります。僕は大阪校所属でしたが、時に京都や神戸校に行って授業を受けていました。その理由は担当の物理の高見先生が好きだったからです。 1年の数か月は海外生活、数か月は日本で予備校の講師をしている一風変わった先生で、口調も独特、問題の考え方や解き方も独特でした。優秀な生徒には不評な先生でしたが、僕はその先生の生き方や物の考え方が好きで、先生が京都や神戸で特別授業がある時は校舎を転々としていました。 当然、その際の大阪での授業は欠席、医学進学コースでの成績は相変わらず下位のままでしたが、そんな事より「物理」を少し面白いと思わせてくれた先生に1年間ついていこう!という想いの方が強かったですね。 あの問題の解き方は斬新的で受験向きではないけれど、物事を考える上では共通したテクニックだと今でも思っています。

だいたいは電車で予備校に行っていましたが、浪人生のくせに自動車免許を取る事を許してもらえ、予備校に自動車で行くこともありました。 勿論、その道中には誘惑がいっぱいあり、予備校に辿りつけない事もあったけれど、車で予備校に行くと言う、まあこれまた舐めた浪人生だったなと思いますし、親もよく許してくれたなと感心してしまいます。 小学生、中学生、高校生と「どうにかして楽をしたい」「どうにかしてサボりたい」という甘い自分が居て、それは浪人生という崖っぷちに立っても同じでした。 そんな中、授業が終わるとさっさと帰ろうとする僕を引き留めてくれ、「自習して帰ろうよ」と声を掛けてくれた同じ医学部進学コースの成績優秀な同期が居ました。 その彼のお陰で僕は奇跡的に医学部(高知医科大学、現高知大学医学部)に合格したのだと今でも感謝しています。その成績優秀な真面目な同期は今、馬渡内科クリニックの理事長、院長として日々、地域医療に貢献されているスーパードクターです。 意外と近い距離に居るのでまた会ってお酒でも飲みたいなと思っています。そんな彼に助けられ、医学部への道へ進むことが出来た予備校時代の1年間でした。そういや自転車、盗まれたな〜どこ行ったんやろ。。


大学時代

月1万6千円の明かりの入らないマンションの1階に住み始め大学生活を開始した。予備校時代に自動車免許を取得していた為、最初から車で通学するという、既にアウトローな感じだった。 当たり前だが、ほとんどの学生は勉強に勉強を重ね医学部に入学しているため、いわゆる一人暮らしなども含め全て「大学デビュー」、大学生活や部活動にと青春を謳歌している様な眩しさがあったが、僕にはそれは中学や高校生の様な雰囲気にも見えて、やはり医学部って特殊な集団なんだなあと思った。

引っ越しはその後、2回した。1回は何故かおしゃれアパートに憧れワンルームの小奇麗なマンションへ引っ越した。が、壁が死ぬほど薄い上、トイレの配管がおかしいのか異臭が絶えずするという悪質なマンション、嘘の理由を並び立て数か月しないうちに退去した。 最終的には棟割りの二階建ての建物に住むこととなり、そこで卒業を迎える。その最後の住処は数少ない来客者にとって「汲み取りトイレ」だった点が大不評だったが、自分自身は何も気にしていなかった。

循環器科の当時の教授が山登りのプロの助教授が気に入らんか知らないけれど、循環器科の実習で変に目をつけられ「君、山登るんだって?山登るなら、降りて来なければいいのに」などとネチネチと学生いびりをされたものです。 うっとうしいのでその教授の講義は1度も受講しなかったけれど、試験は問題なくクリアした。

大学2年から山岳部に入る。雪山、沢登りに夢中になった。山岳部の中でも比較的アグレッシブな先輩、後輩と仲が良かった。ワンダーフォーゲル部というややソフトなネーミングの部だったが、自分自身はまあまあハード側の活動をしていた記憶がある。良い思い出でもあり、嫌な思い出でもあり、ホロ苦い思い出でもある。腰を悪くしたのでもう山や沢には行かないけれど、山や沢の魅力は分かっているつもりだ。

自分の学年は約100人の学生がいた。全国、どこの医学部の募集人数もその程度なので、クラスも1クラス、6年間、持ち上がりでクラス分けや席替えなどはあるわけもない。当たり前だけれど、合う合わないの仲間がいるし、話したことがほとんどない学生もいた。まあ、こんな性格なので仲良くしてくれた同期は本当に数人だった。今でも感謝しているし、良い思い出である。ある時、カンニングをして留年しそうになったクラスメイトを皆で助けようという運動があった。そんなクラスの「仲間意識」「仲間を助けよう」「みんなで卒業しよう!」という良く分からん青春ドラマみたいな雰囲気に馴染めなかった。 一般教養では歴史学、ドイツ語、一般医学では解剖学が好きだった。

国家試験の勉強は、法医学教室の教授の部屋を借り、仲の良かった4名で定期的に集まり過去問題を解いたりなどし頑張った。その助け合いもあり、全員合格した。ただ、国家試験は高知ではなく確か徳島、前日に生徒全員でバスで徳島に行き、同じホテルに宿泊するという、これまた気持ち悪い集団行動が嫌で自分は自分の車で行き、違うホテルに泊まった。国家試験翌日に日本を出てバンコクへ、合格の知らせはバンコクで家族から聞いた。その後、出る気はなかったが、高校の卒業式を欠席した事もあり、大学の卒業式は出席、式典後はまあまあ??仲の良かった女子と1枚の写真を撮っただけで誰と話をすることなく大学を後にした。その後、一度も大学の敷地には入っていない。

大学医局に進むことに違和感を覚え、ある大学助教授に相談、近森病院という高知では有名な救急病院の内科で研修する道を選ぶ。


タイとの出会い

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大学1年の時に行ったタイにはまり、いわゆるリピーターとなる。いろんな町に行ったが、最終的には首都バンコクに落ち着く。 国家試験が終わるとともにタイへ行き、合格発表はタイで知った。 知り合ったタイ人家族とは今でも親交がある。今でもタイが大好き。日頃はタイの音楽しか聴かない。夢はバンコクにコンドミニアムを持つこと。 それまでも、1泊でもいいので定期的にバンコクに行きたい。

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医者時代

伊丹 おの小児科,おの先生

近森病院時代

当時、研修医制度はなく、9割は大学の医局に進む時代だったが、内科部長の計らいで医局員として迎え入れてもらう。 大学の何倍もの症例を軽症から重症まで昼夜問わず経験した。 その反面、論文を読み込むなどのデスクワークは疎かになった。大学より早い段階で色々なことを任されることが多かった。 ベテランの先生、先輩方がチェックしてくれる医療体制が安心だった、 仕事が終わっても勉強に付き合ってくれたり、飲みに誘ってくれたりとお世話になった。 「先生」と言われず、「小野、お前な〜」と言われて嬉しかった。体育会系な循環器科の先生方にお世話になった。 このまま循環器科医として近森病院での勤務も考えたが、小児科が無かったため、小児経験がゼロであることが気になった。 内科部長の計らいで兵庫県立こども病院小児循環器内科へ転職することに。
今の自分の医療の基礎は、近森病院の内科部長であり副院長でもある浜重氏の教えが元になっている。
「スペシャリストである前に、ジェネラリストであれ」それに尽きると思う。

私生活では、在院中に妻と知り合い結婚した。

兵庫県立こども病院 小児循環器科時代

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多くの重症の心臓病の子供たちを診た。子供達の生死、様々な子供達の苦悩に接した。ご家族のケアも大切な仕事のひとつだった。 下っ端の医師であったこともあり、医療とは関係のない資料のコピーなど多くの雑用もした。 朝早くから夜遅くまで働いたが、その合間にアルバイトもしないと生活できなかった。 腰痛に悩まされ、心臓カテーテルの検査ができないほどになったため上司と相談し、早期の退職となった。 体を壊していなければ、もっと長くここに勤めていたと思う。 ここで知り合った鄭輝男先生(てい小児科クリニック:神戸市垂水区)のような小児科医になりたいと思う。

私生活では、長女が生まれたが、とにかく忙しかったため全て妻任せだった。

三田市民病院 小児科時代

腰痛で苦しんでいた時期、三田市民病院の上層部の先生方、小児科の先生方に手を差し伸べて頂き転勤することが出来た。 当時は部長、医長2名が上におり、副医長として赴任、一般小児、新生児、夜間救急に携わった。 部長の退職、上司の産休育休で医師がどんどん減り、時には小児科医は僕一人だけということもあった。 周りの小児科の先生方には「しんどければ辞めてもいいんちゃう?」と言われていたが、 自分ががんばらないとという使命感が当時は強かった。 三田市民や議員などの要望に十分応えられないもどかしさを感じていたが、自分なりに精一杯、地域医療に尽くしたつもりだ。 より多くの子供たちを診たい、夜もなんとかしたいと思い いろいろ提案をしてみるもマンパワー不足で空回り、結局は1人で夜勤し一人で疲れ、 1人で小児科の運営や経営を心配しとドツボにはまりこととなった。結局、最後はいわゆる「独り相撲」で疲れ果てた感じとなった。

40歳になり、このまま勤務医で良いのか、自分のやりたい医療ができないままでいいのかと悩み始める。 三田市で長く勤務した関係で、良い事もあったけれど、嫌な事や悪い事なども山ほどあった。その為、そろそろ風呂敷に荷物をまとめて三田市を出るタイミングかなとも思った。 そうした人生の岐路、転勤も考えたが「自分を表現する医療は開業しか道はない」と決意し、11年勤続後、三田市民病院を退職した。 送別会など全てをお断りし、静かに三田市を後にした。

私生活では、3人の子供が生まれた(全員三田市民病院生まれ、産婦人科の先生方には本当にお世話になった)。 緊急時にすぐに駆けつけられるよう三田市内に一軒家を建築購入するも、諸事情で三田市内に住むのをやめ、西宮市に転居した。 西宮市内から三田市への通勤距離の長さとそれに比例しない仕事内容(つまりは子供たちが減った上、みな元気で入院するケースが減ったという事)の少なさも退職する一因になったかな。

多くの子供たち、お父さん、お母さん達に出会い、多くの入院患者さんの治療を行ったつもりだ。 大半の子供たちは回復し退院、外来で定期的に診ていた子供たちもほとんど皆、順調に治療がなされ成長していったと思う。 勿論、有難い事に感謝される時もあったけれど、何かと色々と不平不満を言われる方が多かった気がしていて、その中でも「三田市に僕は不必要なんだな」と感じた瞬間があったのが最大の退職理由である。 詳細は書かないけれど。


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西宮転居後

2013年に三田市から西宮市に転居した。もともと、海が好きなので、目の前に海が広がるマンションに決めた。 子供4人にしてはやや狭いけれど、プチリフォームなどをし楽しく暮らしている。このマンションの近くから趣味の水上バイク(ジェットスキー)に乗り込み、季節関係なく釣りを楽しんでいる。 基本、9割はガシラ(カサゴ)しか釣れないけれど、必ず釣れるという安定の秘密ポイントがあって、真冬の釣りはだいたいその場所で楽しんでいる。 マンション界隈には何もなく、少し歩けば小さなスーパー、銀行ATM、郵便局、歯医者さん、コンビニがあり、まあまあ生活には困らない。 でも、車がないと海に近いエリアは不便かな。台風21号の影響で壊滅的なダメージを受けたジェットスキーのショップPAL-UPにお世話になっていて、当院も復旧に少しながら協力している。 そんなショップが近い事もあり、今の西宮の生活には満足している。

朝、7時10分か15分に家を出て車に乗ります。阪急今津駅近くにある屋号のない「立ち食いうどん、そば」屋さんに立ち寄ります。 スタミナそばとおにぎりを必ず頼み、これが僕の朝ごはんとなります。天かす、ワカメ、生卵の入った温かいそばを食べないと体がONにならない為、この朝食は僕にとってマストとなっています。 ちなみに金曜日は定休日なので伊丹市の東通商店街近くの「都そば」に立ち寄り、同じくスタミナそばとおにぎりを食べています。 かなりの偏食なので、このパターンが崩れると午前中の診察に影響がでるので、この朝食は僕にとってかかせない儀式のようなものになっています。 話が脱線しましたが、この寄り道を経て、午前8時過ぎにクリニック到着、近くのコンビニでお水2本、その日に飲むお酒数本、栄養ドリンクを購入し、院長室に戻ります。 音楽を聴きながら事務作業をした後、午前8時45分から9時の間に診察室に出る、そんな日々を過ごしています。

伊丹 おの小児科,おの先生 伊丹 おの小児科,おの先生
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360度カメラ映像です。動画左上の白丸をクリックして色んな方向からの映像をお楽しみ下さい。
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小野先生

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